◇洞爺丸事故の悲惨さも−−金丸大作さん(81) 今年の夏、写真集「青函連絡船の記録」(生活情報センター発行)が出版された。 1952年ごろからの連絡船の変遷や青森、函館の港の風景、そして88年3月の最終航海の様子などが、写真と簡潔な文でつづられている。 著者は無線通信士として39年間、青函連絡船に乗船した金丸大作さん(81)。 今も自ら車を運転し、「函館どつくへ新造船を撮りに行きます。 船や港は最高の被写体」と話す。 24(大正13)年、群馬県館林市に生まれた。 官立無線電信講習所(現在の電気通信大)を44年に卒業。 多くの求人票の中から青函連絡船を選んだのは、「海のない土地で育ち、船にあこがれた。 国鉄で沿海を走るから安全だろうとも思った」と振り返る。 初めて自分のカメラを買ったのは48年。 自分の職場である連絡船を写真に収め、故郷の家族や友人に見せたいとの思いからだった。 51年に写真雑誌に初入選し、本格的に写真に取り組むきっかけになったという。 一番印象深かった出来事は「やはり洞爺丸事故です」。 54年9月26日、函館から出港した洞爺丸ほか4隻の連絡船が`15|のために遭難し、乗客・乗員1430人の犠牲者を出した。 タイタニック号事故に次ぐ世界第2の海難事故とも言われる。 その日非番だった金丸さんはラジオのニュースを聞き、カメラを持って沈没現場近くの七重浜(現・北斗市)へバイクで駆け付けた。 まもなく国鉄本社から記録係を命じられ、約1カ月間、無我夢中で撮影し続けたという。 写真集の中には、海面に船腹を見せた洞爺丸や、遺体の収容作業を見守る遺族の表情などを記録した写真が約20ページにわたり掲載されている。 青函連絡船が81年間の歴史に幕を下ろした88年3月13日、金丸さんは函館桟橋で、羊蹄丸の最終航海を見送った。 「83年の定年直前に乗っていた船。 『ご苦労さん』という気持ちでシャッターを押していた」という。 「青函連絡船の写真集はこれが最後でしょう。 この本が連絡船を思い出す縁(よすが)になれば」。 穏やかな語り口の奧に、「古巣」への、深い思いがにじんでいた。 【野宮珠里】 11月5日朝刊 (毎日新聞) -